南風原陸軍病院

ニライカナイ

2007年02月21日 15:22

次に向ったのは南風原陸軍病院跡。

その前に、南風原文化センターにも立ちよった。
そこでは、奉安殿のことを聞いた。

奉安殿。皇民化教育の象徴でもある。
小学校などにあり、その前を通るときは礼をする。なんだか、私は、小・中・高の式の時に国旗に敬礼することが少し重なった。

行事のときには、御親影を校庭にかけ、教育勅語を読んだそうだ。そして最後には、御名御璽といったそうだ。これはオシマイという意味で、天皇の名前のはんこを押すことらしい。

このように、市民を天皇の赤子として育て、日本国の当時のシステム(天皇制)をまもるため、国のトップが皇軍(日本軍)を作っていった。

そして、南風原陸軍病院跡に行った。

ここでは独歩患者以外は置き去りにするとされた場である。また、「負傷したものは看護するのでなく、ほっとけ!」と言われていたそうだ。
第2.3外科壕では、医院長は青酸カリを土に埋めたそうだが、第一外科壕では青酸カリを負傷兵に飲ませた。
そのとき、効き目が薄かった兵士もいたため、120名中50名を撃ち殺し、殺したそうだ。
また、ガマで生き残り、月日がたってからガマを出た兵士によると、ガマから出て、点々と白骨死体があったそうだ。これは、青酸カリを飲んだり、負傷した兵士がガマから逃げ出し、しかし、逃げ切れず、亡くなっていった証拠だという。

また、住民がウチナー口を使ったら、スパイとみなしていた。これは、有名な事実だが、ここから、住民を戦闘に協力させていたにもかかわらず、沖縄県民をどのように見ていたのかという差別心もここでわかるだろう。


次に、轟のガマに向った。



右の写真は砲弾の破片である。
砲弾が一回爆発すると、400㍍にもわたってこのような破片が飛び散るそうだ。
この砲弾の破片はかなり重たかった。こんな砲弾が体に当たったら、すごい怪我をするだろうということは言うまでもなく想像できた。
また、この砲弾の着弾地と近くにいた人は、この砲弾の破片がいっぱい体に突き刺さり、しかも、爆発によってこの破片はすごい熱を持っていたのだろう。
この近くにいた人は少しの負傷でなくなるのではなく、きっと体の原型も失ってしまうくらいのこっぱみじんになって亡くなってしまったのだろう。

しかも、この砲弾はばらばらにちょっと落ちていたのではない。
沖縄では「鉄の暴風」と呼ばれるとうに、次々とこの砲弾が鉛の塊が逃げまとう住民の上に降り注いだのだ。

そして、色々と話を聞いたあと、
轟のガマ(かーぶやガマ)に入っていた。

このガマはアブチラガマのようにかなり入り口から急で危険なガマだった。入っていって広くなったところで、ガマは二手にわかれていた。私たちは左の方に入っていた。

左は住民がいたところで、右は軍が後からきて、住民を左側においやり、使っていたそうだ。
なぜ、左側を住民が使っていたのかというと、左側は少し低くなっており、雨がふると左に水が流れ、生活しにくいからである。私たちがライトを照らすと、左側の奥は池のように、水が貯まっていた。
昔、ここには、たくさんの死体が浮かんでいたという証言もあるそうだ。

ここでは、本当に多くの方がなくなられたそうだ。
ある方の子供がこのガマで餓死をしたそうだ。この方はなくなった子供をずっとずっと抱いていたそうだ。しかし、死臭もあするため、埋めなくてはいけないことになったそうだ。
そこで、彼女はくぼみを見つけ、泣き泣き埋めたそうだ。そのとき、真っ暗で娘の顔も見ることができなかったので、彼女は娘の顔をなんどもなんどもさすり、さわり、そして手の感覚で娘の死に顔を焼き付けようとされたそうだ。

ここで、私たちは何分いたのかははっきりはわからない。
30分以上はいたとは思う。
でも、本当に本当に怖かった。恐ろしかった。私は隣にいた友達の手を離すことはできなかった。
ずっとずっとぎゅっと握っていた。

ココに入って、61年絶った今でも、61年前の空気がまだ流れていると感じた。
また、地下に封印されているかのようにも感じた。
何年絶っても痛みの消えない戦争の傷跡。
このことをこの肌でものすごく実感した。
死んでもここで痛み続けている人がいるということを感じた。

正直、ここでの感情は言葉にできないものがある。
でも、こんな戦争を何があっても私たちは繰り返してはいけないんだということをガマの中で眠っている人たちから教わった気がした。


ガマからでたあとで、ここで米軍に助けられた人の写真を見た。

すると、そこにうつっていた人は、ガマに何ヶ月もいたとは思えないような晴れ着をきていおられた。

この晴れ着は死を覚悟していた証拠だそう。
死ぬときくらい一番気に入っているもので死のうというので、家から逃げるときに、死に衣装をもって出ていたらしい。そして、米軍の手に渡る=死ぬ。ということであったため、
死に衣装を着て、米軍の投降に応じたそうだ。

ここでも、日本の鬼畜米英の考えが強く現れていたし、この死を覚悟した人の後ろ姿を見て、こらえられない気持ちでいっぱいになった。

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