2007年02月26日
元の辺野古へ
今日も辺野古へ行ってきました!
新しい看板に今頃気付く私・・・
「新基地建設阻止」の力強い思いが伝わってきます!
昨日・一昨日の音楽フェスには残念ながら参加出来なかったのですが、
後片付けのお手伝いをさせてもらいました。
イスを拭いたり、テントたたんだり、
こういう形でも参加出来て良かったです。
昼ご飯はテント村でごちそうになってしまいました♪
昼食後のテント村は三線引いたり、
ほら貝ふいたり、指笛ふいたり、
みんなそれぞれ色々音を鳴らしていて、
かなり怪しげな空間でした(笑)
今回は今日で最後だと思いますが、
また今日の出会いを明日・あさってに、
そして全国に広げていきたいと思います。
帰る頃には辺野古の浜も元通りに☆
皆さん、お疲れ様でした!
写真は今日の辺野古の様子!
浜の写真はどんな朝方から作業しとんねんって感じですが、
ただ逆光なだけです(笑)
最後はテント村ニューフェース!?
パンダちゃん!じゃなくって、
わんこのりんごちゃん☆
新しい看板に今頃気付く私・・・
「新基地建設阻止」の力強い思いが伝わってきます!
昨日・一昨日の音楽フェスには残念ながら参加出来なかったのですが、
後片付けのお手伝いをさせてもらいました。
イスを拭いたり、テントたたんだり、
こういう形でも参加出来て良かったです。
昼ご飯はテント村でごちそうになってしまいました♪
昼食後のテント村は三線引いたり、
ほら貝ふいたり、指笛ふいたり、
みんなそれぞれ色々音を鳴らしていて、
かなり怪しげな空間でした(笑)
今回は今日で最後だと思いますが、
また今日の出会いを明日・あさってに、
そして全国に広げていきたいと思います。
帰る頃には辺野古の浜も元通りに☆
皆さん、お疲れ様でした!
写真は今日の辺野古の様子!
浜の写真はどんな朝方から作業しとんねんって感じですが、
ただ逆光なだけです(笑)
最後はテント村ニューフェース!?
パンダちゃん!じゃなくって、
わんこのりんごちゃん☆
2007年02月21日
南風原陸軍病院
次に向ったのは南風原陸軍病院跡。
その前に、南風原文化センターにも立ちよった。
そこでは、奉安殿のことを聞いた。
奉安殿。皇民化教育の象徴でもある。
小学校などにあり、その前を通るときは礼をする。なんだか、私は、小・中・高の式の時に国旗に敬礼することが少し重なった。
行事のときには、御親影を校庭にかけ、教育勅語を読んだそうだ。そして最後には、御名御璽といったそうだ。これはオシマイという意味で、天皇の名前のはんこを押すことらしい。
このように、市民を天皇の赤子として育て、日本国の当時のシステム(天皇制)をまもるため、国のトップが皇軍(日本軍)を作っていった。
そして、南風原陸軍病院跡に行った。
ここでは独歩患者以外は置き去りにするとされた場である。また、「負傷したものは看護するのでなく、ほっとけ!」と言われていたそうだ。
第2.3外科壕では、医院長は青酸カリを土に埋めたそうだが、第一外科壕では青酸カリを負傷兵に飲ませた。
そのとき、効き目が薄かった兵士もいたため、120名中50名を撃ち殺し、殺したそうだ。
また、ガマで生き残り、月日がたってからガマを出た兵士によると、ガマから出て、点々と白骨死体があったそうだ。これは、青酸カリを飲んだり、負傷した兵士がガマから逃げ出し、しかし、逃げ切れず、亡くなっていった証拠だという。
また、住民がウチナー口を使ったら、スパイとみなしていた。これは、有名な事実だが、ここから、住民を戦闘に協力させていたにもかかわらず、沖縄県民をどのように見ていたのかという差別心もここでわかるだろう。
次に、轟のガマに向った。
右の写真は砲弾の破片である。
砲弾が一回爆発すると、400㍍にもわたってこのような破片が飛び散るそうだ。
この砲弾の破片はかなり重たかった。こんな砲弾が体に当たったら、すごい怪我をするだろうということは言うまでもなく想像できた。
また、この砲弾の着弾地と近くにいた人は、この砲弾の破片がいっぱい体に突き刺さり、しかも、爆発によってこの破片はすごい熱を持っていたのだろう。
この近くにいた人は少しの負傷でなくなるのではなく、きっと体の原型も失ってしまうくらいのこっぱみじんになって亡くなってしまったのだろう。
しかも、この砲弾はばらばらにちょっと落ちていたのではない。
沖縄では「鉄の暴風」と呼ばれるとうに、次々とこの砲弾が鉛の塊が逃げまとう住民の上に降り注いだのだ。
そして、色々と話を聞いたあと、
轟のガマ(かーぶやガマ)に入っていた。
このガマはアブチラガマのようにかなり入り口から急で危険なガマだった。入っていって広くなったところで、ガマは二手にわかれていた。私たちは左の方に入っていた。
左は住民がいたところで、右は軍が後からきて、住民を左側においやり、使っていたそうだ。
なぜ、左側を住民が使っていたのかというと、左側は少し低くなっており、雨がふると左に水が流れ、生活しにくいからである。私たちがライトを照らすと、左側の奥は池のように、水が貯まっていた。
昔、ここには、たくさんの死体が浮かんでいたという証言もあるそうだ。
ここでは、本当に多くの方がなくなられたそうだ。
ある方の子供がこのガマで餓死をしたそうだ。この方はなくなった子供をずっとずっと抱いていたそうだ。しかし、死臭もあするため、埋めなくてはいけないことになったそうだ。
そこで、彼女はくぼみを見つけ、泣き泣き埋めたそうだ。そのとき、真っ暗で娘の顔も見ることができなかったので、彼女は娘の顔をなんどもなんどもさすり、さわり、そして手の感覚で娘の死に顔を焼き付けようとされたそうだ。
ここで、私たちは何分いたのかははっきりはわからない。
30分以上はいたとは思う。
でも、本当に本当に怖かった。恐ろしかった。私は隣にいた友達の手を離すことはできなかった。
ずっとずっとぎゅっと握っていた。
ココに入って、61年絶った今でも、61年前の空気がまだ流れていると感じた。
また、地下に封印されているかのようにも感じた。
何年絶っても痛みの消えない戦争の傷跡。
このことをこの肌でものすごく実感した。
死んでもここで痛み続けている人がいるということを感じた。
正直、ここでの感情は言葉にできないものがある。
でも、こんな戦争を何があっても私たちは繰り返してはいけないんだということをガマの中で眠っている人たちから教わった気がした。
ガマからでたあとで、ここで米軍に助けられた人の写真を見た。
すると、そこにうつっていた人は、ガマに何ヶ月もいたとは思えないような晴れ着をきていおられた。
この晴れ着は死を覚悟していた証拠だそう。
死ぬときくらい一番気に入っているもので死のうというので、家から逃げるときに、死に衣装をもって出ていたらしい。そして、米軍の手に渡る=死ぬ。ということであったため、
死に衣装を着て、米軍の投降に応じたそうだ。
ここでも、日本の鬼畜米英の考えが強く現れていたし、この死を覚悟した人の後ろ姿を見て、こらえられない気持ちでいっぱいになった。
その前に、南風原文化センターにも立ちよった。
そこでは、奉安殿のことを聞いた。
奉安殿。皇民化教育の象徴でもある。
小学校などにあり、その前を通るときは礼をする。なんだか、私は、小・中・高の式の時に国旗に敬礼することが少し重なった。
行事のときには、御親影を校庭にかけ、教育勅語を読んだそうだ。そして最後には、御名御璽といったそうだ。これはオシマイという意味で、天皇の名前のはんこを押すことらしい。
このように、市民を天皇の赤子として育て、日本国の当時のシステム(天皇制)をまもるため、国のトップが皇軍(日本軍)を作っていった。
そして、南風原陸軍病院跡に行った。
ここでは独歩患者以外は置き去りにするとされた場である。また、「負傷したものは看護するのでなく、ほっとけ!」と言われていたそうだ。
第2.3外科壕では、医院長は青酸カリを土に埋めたそうだが、第一外科壕では青酸カリを負傷兵に飲ませた。
そのとき、効き目が薄かった兵士もいたため、120名中50名を撃ち殺し、殺したそうだ。
また、ガマで生き残り、月日がたってからガマを出た兵士によると、ガマから出て、点々と白骨死体があったそうだ。これは、青酸カリを飲んだり、負傷した兵士がガマから逃げ出し、しかし、逃げ切れず、亡くなっていった証拠だという。
また、住民がウチナー口を使ったら、スパイとみなしていた。これは、有名な事実だが、ここから、住民を戦闘に協力させていたにもかかわらず、沖縄県民をどのように見ていたのかという差別心もここでわかるだろう。
次に、轟のガマに向った。
右の写真は砲弾の破片である。
砲弾が一回爆発すると、400㍍にもわたってこのような破片が飛び散るそうだ。
この砲弾の破片はかなり重たかった。こんな砲弾が体に当たったら、すごい怪我をするだろうということは言うまでもなく想像できた。
また、この砲弾の着弾地と近くにいた人は、この砲弾の破片がいっぱい体に突き刺さり、しかも、爆発によってこの破片はすごい熱を持っていたのだろう。
この近くにいた人は少しの負傷でなくなるのではなく、きっと体の原型も失ってしまうくらいのこっぱみじんになって亡くなってしまったのだろう。
しかも、この砲弾はばらばらにちょっと落ちていたのではない。
沖縄では「鉄の暴風」と呼ばれるとうに、次々とこの砲弾が鉛の塊が逃げまとう住民の上に降り注いだのだ。
そして、色々と話を聞いたあと、
轟のガマ(かーぶやガマ)に入っていた。
このガマはアブチラガマのようにかなり入り口から急で危険なガマだった。入っていって広くなったところで、ガマは二手にわかれていた。私たちは左の方に入っていた。
左は住民がいたところで、右は軍が後からきて、住民を左側においやり、使っていたそうだ。
なぜ、左側を住民が使っていたのかというと、左側は少し低くなっており、雨がふると左に水が流れ、生活しにくいからである。私たちがライトを照らすと、左側の奥は池のように、水が貯まっていた。
昔、ここには、たくさんの死体が浮かんでいたという証言もあるそうだ。
ここでは、本当に多くの方がなくなられたそうだ。
ある方の子供がこのガマで餓死をしたそうだ。この方はなくなった子供をずっとずっと抱いていたそうだ。しかし、死臭もあするため、埋めなくてはいけないことになったそうだ。
そこで、彼女はくぼみを見つけ、泣き泣き埋めたそうだ。そのとき、真っ暗で娘の顔も見ることができなかったので、彼女は娘の顔をなんどもなんどもさすり、さわり、そして手の感覚で娘の死に顔を焼き付けようとされたそうだ。
ここで、私たちは何分いたのかははっきりはわからない。
30分以上はいたとは思う。
でも、本当に本当に怖かった。恐ろしかった。私は隣にいた友達の手を離すことはできなかった。
ずっとずっとぎゅっと握っていた。
ココに入って、61年絶った今でも、61年前の空気がまだ流れていると感じた。
また、地下に封印されているかのようにも感じた。
何年絶っても痛みの消えない戦争の傷跡。
このことをこの肌でものすごく実感した。
死んでもここで痛み続けている人がいるということを感じた。
正直、ここでの感情は言葉にできないものがある。
でも、こんな戦争を何があっても私たちは繰り返してはいけないんだということをガマの中で眠っている人たちから教わった気がした。
ガマからでたあとで、ここで米軍に助けられた人の写真を見た。
すると、そこにうつっていた人は、ガマに何ヶ月もいたとは思えないような晴れ着をきていおられた。
この晴れ着は死を覚悟していた証拠だそう。
死ぬときくらい一番気に入っているもので死のうというので、家から逃げるときに、死に衣装をもって出ていたらしい。そして、米軍の手に渡る=死ぬ。ということであったため、
死に衣装を着て、米軍の投降に応じたそうだ。
ここでも、日本の鬼畜米英の考えが強く現れていたし、この死を覚悟した人の後ろ姿を見て、こらえられない気持ちでいっぱいになった。
2007年02月21日
沖縄2~嘉数高台~
はいた~い!まぁみです!
では、二日目、2月13日(火)のOKINAWA旅の報告します~♪
朝はなんと!なんと!!2時すぎに寝たのに。。。5時起き!!!!
そして、緊張気味のウチは4時半に目が覚めてしまいました。笑(ぉばぁか!笑)
そんなこんなで、那覇で8時に集合だったので6時に出発~!とホテルを6時に出ました。てか、外はま~っ暗でした!!!(綺麗な海も見えず・・・泣)
そして那覇でT大学組と合流し、ゆいバスにのりこみました!
向ったのは・・
沖縄戦激戦地の嘉数高台です。
その向う中でもたくさんお話を聞きました。
嘉数高台は沖縄戦の3重の防衛線の最前線になっていたところで、首里を守るためにここでは激し戦闘が約16日間もつづいた。
沖縄戦でこの嘉数の防衛にあたっていたひびのさんの証言では、10kgの爆弾を戦車のキャタピラの下に投げ込んでいた。しかし、この嘉数の戦闘が終わりに近づいてきていたときには、爆弾を投げ込むのではなく、自らが爆弾を持って、戦車の下に走りこみ、爆発させたそうだ。
米軍は、日本軍のこの戦闘に大変手をやいたそうだ。
戦争とは兵力が30%失われた場合、降伏しても司令官は罪にならないそうだ。
しかし、沖縄戦では、首里が陥落した時点で、11万中8万の兵士が戦死していた。にもかかわらず、降伏されることはなかった。
この状況からも、沖縄は本土への上陸を一日でも遅らせるための沖縄捨石作戦だったのだ。
また、沖縄戦では特に南部を中心に、軍民が混在していたため、米軍は無差別にころしていったのである。また、住民は軍の手伝いなどをもさせられていて、米軍の投光に応じると、スパイとみなし、住民を殺したり、投降させなかった。
読谷村から南にはガマがたくさんあるらしく、糸満では239ものガマがあるらしい。
県民の6~7割が南部でなくなっている。また、子供は92%ガマを追い出されたことによりなくなっているらしい。(防衛省のデーター)
このように、6月が住民が一番多くなくなっている。
ガマに非難していた住民を追い出して軍が使うようになったから住民は逃げ場、隠れ場をうしなったのだろう。
沖縄戦を学ぶたびに、軍は住民を守らないということを強く知らされる。
戦争は許されないし、戦争は罪のない弱いものが犠牲になる。
また、嘉数高台からは、普天間飛行場を見渡すことができる。
普天間基地は唯一もとの日本軍基地を拡大したのでなく、まっさらな土地を米軍が占領し、そして作っていった基地である。
ここから普天間基地を見渡したのは2度目だったが、いつみても広い。
私たちがここを訪れたとき、普天間40-50機の飛行機がなかったらしい。
ここからイラクにもいっているし、新聞の発表によると沖縄近海に海兵隊4千人(海兵隊の4分の1)が演習のため出て行っているらしい。
そのてめ、沖縄のフリマでは、米軍の家族があまった食料(JUNK FOOD)を大量に売っていたらしい。
その他まだまだたくさんのことを嘉数高台では聞いた。
嘉数高台は過去、現在、未来が見える貴重な場である。
私はこの場で、過去は今の現状、またこれからの未来を見て、何を私たちに訴えようとしているのかしっかりと受け止め、そして今を生きる一人として、しっかり行動していかなければいけないと強く思った。
そして、次は南風原陸軍病院跡に向った・・・
そのとき、バスで死の十字路を通った。
沖縄戦のとき、米軍は住民や軍が逃げる道を封鎖するため、十字路や橋など幹線湯所を空爆などで攻撃していった。そのとき、多くの人々が負傷し、死体の山ができたらしい。
そこで、その道を通るため、死体を道のわきによけていったら、家や塀の高さまで死体が積み重なり、そして死体の壁ができたそうだ。
そのひとつの十字路を通った。。。
バスで通ると本当に一瞬で、今は何もなかったかのように交通量も多く、たくさんの店や家が立ち並んでいた。
でも、決して忘れてはいけないと思った。
そのときの情景は想像を絶するものだったと思う。が、自分の想像力を振り絞り、想像することが大切だと思った。
では、二日目、2月13日(火)のOKINAWA旅の報告します~♪
朝はなんと!なんと!!2時すぎに寝たのに。。。5時起き!!!!
そして、緊張気味のウチは4時半に目が覚めてしまいました。笑(ぉばぁか!笑)
そんなこんなで、那覇で8時に集合だったので6時に出発~!とホテルを6時に出ました。てか、外はま~っ暗でした!!!(綺麗な海も見えず・・・泣)
そして那覇でT大学組と合流し、ゆいバスにのりこみました!
向ったのは・・
沖縄戦激戦地の嘉数高台です。
その向う中でもたくさんお話を聞きました。
嘉数高台は沖縄戦の3重の防衛線の最前線になっていたところで、首里を守るためにここでは激し戦闘が約16日間もつづいた。
沖縄戦でこの嘉数の防衛にあたっていたひびのさんの証言では、10kgの爆弾を戦車のキャタピラの下に投げ込んでいた。しかし、この嘉数の戦闘が終わりに近づいてきていたときには、爆弾を投げ込むのではなく、自らが爆弾を持って、戦車の下に走りこみ、爆発させたそうだ。
米軍は、日本軍のこの戦闘に大変手をやいたそうだ。
戦争とは兵力が30%失われた場合、降伏しても司令官は罪にならないそうだ。
しかし、沖縄戦では、首里が陥落した時点で、11万中8万の兵士が戦死していた。にもかかわらず、降伏されることはなかった。
この状況からも、沖縄は本土への上陸を一日でも遅らせるための沖縄捨石作戦だったのだ。
また、沖縄戦では特に南部を中心に、軍民が混在していたため、米軍は無差別にころしていったのである。また、住民は軍の手伝いなどをもさせられていて、米軍の投光に応じると、スパイとみなし、住民を殺したり、投降させなかった。
読谷村から南にはガマがたくさんあるらしく、糸満では239ものガマがあるらしい。
県民の6~7割が南部でなくなっている。また、子供は92%ガマを追い出されたことによりなくなっているらしい。(防衛省のデーター)
このように、6月が住民が一番多くなくなっている。
ガマに非難していた住民を追い出して軍が使うようになったから住民は逃げ場、隠れ場をうしなったのだろう。
沖縄戦を学ぶたびに、軍は住民を守らないということを強く知らされる。
戦争は許されないし、戦争は罪のない弱いものが犠牲になる。
また、嘉数高台からは、普天間飛行場を見渡すことができる。
普天間基地は唯一もとの日本軍基地を拡大したのでなく、まっさらな土地を米軍が占領し、そして作っていった基地である。
ここから普天間基地を見渡したのは2度目だったが、いつみても広い。
私たちがここを訪れたとき、普天間40-50機の飛行機がなかったらしい。
ここからイラクにもいっているし、新聞の発表によると沖縄近海に海兵隊4千人(海兵隊の4分の1)が演習のため出て行っているらしい。
そのてめ、沖縄のフリマでは、米軍の家族があまった食料(JUNK FOOD)を大量に売っていたらしい。
その他まだまだたくさんのことを嘉数高台では聞いた。
嘉数高台は過去、現在、未来が見える貴重な場である。
私はこの場で、過去は今の現状、またこれからの未来を見て、何を私たちに訴えようとしているのかしっかりと受け止め、そして今を生きる一人として、しっかり行動していかなければいけないと強く思った。
そして、次は南風原陸軍病院跡に向った・・・
そのとき、バスで死の十字路を通った。
沖縄戦のとき、米軍は住民や軍が逃げる道を封鎖するため、十字路や橋など幹線湯所を空爆などで攻撃していった。そのとき、多くの人々が負傷し、死体の山ができたらしい。
そこで、その道を通るため、死体を道のわきによけていったら、家や塀の高さまで死体が積み重なり、そして死体の壁ができたそうだ。
そのひとつの十字路を通った。。。
バスで通ると本当に一瞬で、今は何もなかったかのように交通量も多く、たくさんの店や家が立ち並んでいた。
でも、決して忘れてはいけないと思った。
そのときの情景は想像を絶するものだったと思う。が、自分の想像力を振り絞り、想像することが大切だと思った。
2007年02月19日
OKINAWA~1日目~ ひめゆりetc・・・
はいた~い!まぁみです!
金曜日に沖縄から帰ってきました~
なので、ちょっとした報告をしていきたいと思います。
まずは、2月12日(月)
今回、私はニラカナのメンバーと沖縄にいったのではなく、OJCの友達5人でいってきました!
私以外はニラカナのメンバーではありません。
その5人で、12日は伊丹空港で朝10:00に待ち合わせ。。。
み~んな。学校では遅刻魔の子らばかりなんですが・・・
この日は誰も遅刻せず、無事、伊丹空港を出発しました~!!
そんで、そんで、那覇空港に到着!!
風邪ひいていて、鼻水がすごかった私は、耳抜きができず、かなりの気圧に悩まされました。でも、さすが!沖縄!そんなことも忘れるくらい、うれしくってたまりませんでした~!
そして、OJCのある授業をもっていただいてる、T大学のA場先生とそのゼミ生、そして、O島さんという沖縄で平和ガイドをされている方に那覇空港で合流しました!
私たち5人はこの人たちに合流させていただき、色々と回らせていただく予定だったので、ちょっとした打ち合わせをしにいきました。
そしてその後、レンタカーを借り、向ったのは。。。
ひめゆり資料館
ここは、メンバーたちが一番行きたいねんってゆぅてた場所でもありました。
那覇から糸満のほうに南下!南下!!していきました~!
ひめゆりの塔は1946年金城和信さん
という方が作られた塔であるそうです。
和信さんの娘さんはひめゆり学徒隊に2人入っておられ、1人がこの碑があるところのガマ(第三外科壕)で亡くなられたそうです。
そして、ひめゆり学徒が一番多くなくなられたのがこのガマだそうで、和信さんはこのような理由からこの場にひめゆりの塔を作られたそうです。
このガマは壺状のガマであったため、黄燐手榴弾を投げ込まれ、この細粒ガスによって多くの学徒隊が死に、助かったのはったの5名だったそうです。
ここには、8名の民間人もいたらしいのですが、7名がなくなったそうです。これからわかることは、ひめゆり学徒隊もはじめにいた民間人を追い出して、このガマを外科壕としてつかっていたということ。
ひめゆり学徒隊ももちろん悲劇の部隊で、悲惨な中でなくなられたり、生き残られたりされたけれど、その下には、さらに民間人の犠牲もあったことは私たちは決して忘れてはならないし、ひめゆり学徒を想うと同時に民間人々にも目をむけ、向き合わなければいけないなと感じました。
また、このひめゆり資料館がつくられた経緯についても聞きました。
ひめゆり学徒は沖縄の中でも、市町村から一人いけるか行けないかというような当時の超エリート学校だったそうです。
そのため、沖縄戦後の女性リーダーとして彼女たちが活躍されたため、これほどの資料館を作れたそうです。
このことを知ったと同時に、ひめゆり学徒以外の資料館はなく、慰霊碑しかない人々のことも、もっとしらなければならないし、有名でないからといってそこをスルーして通ってはいけない、向き会わなければいけないんだと思いました。
また、ひめゆり学徒の一員であった島袋さんのひとつのエピソードを聞きました。
彼女は解散命令の後、まぶにの丘の絶壁を移動していたことがあったそうです。
そのとき、その絶壁のくぼみに2人の9歳と7歳の男の子がいて、
「お姉さん、一緒に連れて行って!」といわれたらしいが、色んな説得をして、この二人の子を置き去りにしてしまったらしい。
でも、島袋さんは、このことをずとずっと忘れることはなく、、また、言えなかったらしい。でも、毎年、この時期になると体調を壊されていたらしいです。
島袋さんは自分の責任で少年たちを殺してしまtったかもしれないとずっとずっと誰にも言えなかったらしい。そして、そのくぼみの場に60年ぶりに訪れ、数名の人と遺骨を探したそうです。
しかし、遺骨はなかった。そのとき、周りの人が「生きてるかもしれないよ。」などと声をかけたとき、
島袋さんは、「うん。そうだよね。」とポツリと自分にいいいきかせるように言ったそう。
この話から、私はそれぞれの沖縄戦はまだ終わっていないし、それに、今も沖縄戦で苦しんでいる人たちがいることに改めて気づかされた。戦争というものは、60年たっても61年たってもそれぞれを苦しめつづける。戦争というものは、単に体を傷つけたりする以上に、心に治ることのない傷をも負わせる。だからこそ、絶対に戦争なんて行為は許されない。
どんなことがあってもゆるされない。
どんな暴力もいけないけれど、戦争はしてしまうと、修復できない最強の暴力とでもいえるのではないかと思いました。
そして、ひめゆり資料館に入って、様々な展示をみました。
そこで、私が今回目についたのが、教科書だった、
小学校の教科書でいくつかの象徴的な言葉がでてきました。
●富士山 日本の象徴
●朝日 日本の象徴
●桜 清く散る軍人の意味
●国家と家庭が強調された意味の内容
また、数の教科書では、戦闘機を数えたりなどてと、軍国主義が強く反映された教科書をみました。
たまたま、ホテルに帰ってTVをつけると、ニュースであべ首相の記者会見を見た。そのバックには、満開に咲く綺麗な桜が描かれていた。なぜか、私は少し怖いような何か変な気持ちになりました。
ほかにもひめゆり資料館で感じること、学んだことはたくさんあった。
また、機会があれば書くことにします。
そして、ふみネェと合流し、白梅の塔にもいった。
白梅の塔は初めてで、あまりしらなかったので、この前でもってきていた本を読んだり、自分たちでちょっと学びました。
また、もっともっと学びたいと思います。
まわりには、陸軍大佐や様々な方の慰霊碑、また、山形の塔など、いろんな慰霊碑、ガマなどがありました。
そこから感じたことは、この場は、本当に激戦地域でもあったんだろうと思いました。
この場で色んな人々が混在して、逃げまとっていたり、死臭が立ち込めていたんだろうと思いました。
私には、想像を絶する戦場が61年前のこの地ではおこっていたのだと思います。
なんとも言えないような感覚が、私の体の中をめぐっていました。
また、この場で、沖縄に来て、一番星もみつけました。
そして、その後は沖縄についてはじめてOKINAWAを味わいに、、、
ブルーシールのアイスを食べに浦添のBig DipにGOGO~~!!!
私は、うべと期間限定のキャラメルアップルのダブルを食べました~
もぉ、ブルーシールのアイスはぉぃしぃぃぃい!!!
本当に好き好き♪♪
沖縄にいったら次も絶対にいかな~笑
そんで~。そっから、ホテルに10時までにチェックインしないけない!ということで、あわてててて!!
出発~!結局、道間違いまくり、間に合うことができず、、泣
でも、ホテルのおっちゃんすごくいい方でした♪
そっから一回部屋いって、ご飯よく考えたら食べてなかったので、ローソンですば買って、食べました~♪
明日(13日)は、5時起きやから、早く寝ましょうね~
とか、言いながら、結局、2時すぎにお布団にみんなで入りました~
次の日(13日)は南部戦跡!!
また、部ログ、UPしま~す!!
金曜日に沖縄から帰ってきました~
なので、ちょっとした報告をしていきたいと思います。
まずは、2月12日(月)
今回、私はニラカナのメンバーと沖縄にいったのではなく、OJCの友達5人でいってきました!
私以外はニラカナのメンバーではありません。
その5人で、12日は伊丹空港で朝10:00に待ち合わせ。。。
み~んな。学校では遅刻魔の子らばかりなんですが・・・
この日は誰も遅刻せず、無事、伊丹空港を出発しました~!!
そんで、そんで、那覇空港に到着!!
風邪ひいていて、鼻水がすごかった私は、耳抜きができず、かなりの気圧に悩まされました。でも、さすが!沖縄!そんなことも忘れるくらい、うれしくってたまりませんでした~!
そして、OJCのある授業をもっていただいてる、T大学のA場先生とそのゼミ生、そして、O島さんという沖縄で平和ガイドをされている方に那覇空港で合流しました!
私たち5人はこの人たちに合流させていただき、色々と回らせていただく予定だったので、ちょっとした打ち合わせをしにいきました。
そしてその後、レンタカーを借り、向ったのは。。。
ひめゆり資料館
ここは、メンバーたちが一番行きたいねんってゆぅてた場所でもありました。
那覇から糸満のほうに南下!南下!!していきました~!
ひめゆりの塔は1946年金城和信さん
という方が作られた塔であるそうです。
和信さんの娘さんはひめゆり学徒隊に2人入っておられ、1人がこの碑があるところのガマ(第三外科壕)で亡くなられたそうです。
そして、ひめゆり学徒が一番多くなくなられたのがこのガマだそうで、和信さんはこのような理由からこの場にひめゆりの塔を作られたそうです。
このガマは壺状のガマであったため、黄燐手榴弾を投げ込まれ、この細粒ガスによって多くの学徒隊が死に、助かったのはったの5名だったそうです。
ここには、8名の民間人もいたらしいのですが、7名がなくなったそうです。これからわかることは、ひめゆり学徒隊もはじめにいた民間人を追い出して、このガマを外科壕としてつかっていたということ。
ひめゆり学徒隊ももちろん悲劇の部隊で、悲惨な中でなくなられたり、生き残られたりされたけれど、その下には、さらに民間人の犠牲もあったことは私たちは決して忘れてはならないし、ひめゆり学徒を想うと同時に民間人々にも目をむけ、向き合わなければいけないなと感じました。
また、このひめゆり資料館がつくられた経緯についても聞きました。
ひめゆり学徒は沖縄の中でも、市町村から一人いけるか行けないかというような当時の超エリート学校だったそうです。
そのため、沖縄戦後の女性リーダーとして彼女たちが活躍されたため、これほどの資料館を作れたそうです。
このことを知ったと同時に、ひめゆり学徒以外の資料館はなく、慰霊碑しかない人々のことも、もっとしらなければならないし、有名でないからといってそこをスルーして通ってはいけない、向き会わなければいけないんだと思いました。
また、ひめゆり学徒の一員であった島袋さんのひとつのエピソードを聞きました。
彼女は解散命令の後、まぶにの丘の絶壁を移動していたことがあったそうです。
そのとき、その絶壁のくぼみに2人の9歳と7歳の男の子がいて、
「お姉さん、一緒に連れて行って!」といわれたらしいが、色んな説得をして、この二人の子を置き去りにしてしまったらしい。
でも、島袋さんは、このことをずとずっと忘れることはなく、、また、言えなかったらしい。でも、毎年、この時期になると体調を壊されていたらしいです。
島袋さんは自分の責任で少年たちを殺してしまtったかもしれないとずっとずっと誰にも言えなかったらしい。そして、そのくぼみの場に60年ぶりに訪れ、数名の人と遺骨を探したそうです。
しかし、遺骨はなかった。そのとき、周りの人が「生きてるかもしれないよ。」などと声をかけたとき、
島袋さんは、「うん。そうだよね。」とポツリと自分にいいいきかせるように言ったそう。
この話から、私はそれぞれの沖縄戦はまだ終わっていないし、それに、今も沖縄戦で苦しんでいる人たちがいることに改めて気づかされた。戦争というものは、60年たっても61年たってもそれぞれを苦しめつづける。戦争というものは、単に体を傷つけたりする以上に、心に治ることのない傷をも負わせる。だからこそ、絶対に戦争なんて行為は許されない。
どんなことがあってもゆるされない。
どんな暴力もいけないけれど、戦争はしてしまうと、修復できない最強の暴力とでもいえるのではないかと思いました。
そして、ひめゆり資料館に入って、様々な展示をみました。
そこで、私が今回目についたのが、教科書だった、
小学校の教科書でいくつかの象徴的な言葉がでてきました。
●富士山 日本の象徴
●朝日 日本の象徴
●桜 清く散る軍人の意味
●国家と家庭が強調された意味の内容
また、数の教科書では、戦闘機を数えたりなどてと、軍国主義が強く反映された教科書をみました。
たまたま、ホテルに帰ってTVをつけると、ニュースであべ首相の記者会見を見た。そのバックには、満開に咲く綺麗な桜が描かれていた。なぜか、私は少し怖いような何か変な気持ちになりました。
ほかにもひめゆり資料館で感じること、学んだことはたくさんあった。
また、機会があれば書くことにします。
そして、ふみネェと合流し、白梅の塔にもいった。
白梅の塔は初めてで、あまりしらなかったので、この前でもってきていた本を読んだり、自分たちでちょっと学びました。
また、もっともっと学びたいと思います。
まわりには、陸軍大佐や様々な方の慰霊碑、また、山形の塔など、いろんな慰霊碑、ガマなどがありました。
そこから感じたことは、この場は、本当に激戦地域でもあったんだろうと思いました。
この場で色んな人々が混在して、逃げまとっていたり、死臭が立ち込めていたんだろうと思いました。
私には、想像を絶する戦場が61年前のこの地ではおこっていたのだと思います。
なんとも言えないような感覚が、私の体の中をめぐっていました。
また、この場で、沖縄に来て、一番星もみつけました。
そして、その後は沖縄についてはじめてOKINAWAを味わいに、、、
ブルーシールのアイスを食べに浦添のBig DipにGOGO~~!!!
私は、うべと期間限定のキャラメルアップルのダブルを食べました~
もぉ、ブルーシールのアイスはぉぃしぃぃぃい!!!
本当に好き好き♪♪
沖縄にいったら次も絶対にいかな~笑
そんで~。そっから、ホテルに10時までにチェックインしないけない!ということで、あわてててて!!
出発~!結局、道間違いまくり、間に合うことができず、、泣
でも、ホテルのおっちゃんすごくいい方でした♪
そっから一回部屋いって、ご飯よく考えたら食べてなかったので、ローソンですば買って、食べました~♪
明日(13日)は、5時起きやから、早く寝ましょうね~
とか、言いながら、結局、2時すぎにお布団にみんなで入りました~
次の日(13日)は南部戦跡!!
また、部ログ、UPしま~す!!
2007年02月17日
花織そば
あびとゆりっちが沖縄そばを食べたいと言うので、
一昨年の地域研究で連れてってもらった花織そばに行ってきました
お腹ペコペコで行ったけど、
一昨年同様、花織そばのボリュームに負けました。
食べ切れない!!
このお肉のボリュームよ!!
でも柔らかくって、かなり食べやすいです☆
読谷村へおいでやす♪
2007年02月16日
辺野古の浜辺で想う
今日も329を通る用事があったので、
あびちゃんとゆりっちを辺野古に連れてってみました。
今日の辺野古は非常におだやかで、
テント村の篠原さんに説明を受けましたが、
やっぱり印象に残るのは、
ここと戦場が直結しているということ…。
3人はそれぞれ辺野古が初めてだったり、
知ってたけど理解してなかった部分があったり、
そんな中でお互いに何か感じるものがあったはず。
「辺野古行ってみる?」
この言葉から始まる。
あびちゃんとゆりっちを辺野古に連れてってみました。
今日の辺野古は非常におだやかで、
テント村の篠原さんに説明を受けましたが、
やっぱり印象に残るのは、
ここと戦場が直結しているということ…。
3人はそれぞれ辺野古が初めてだったり、
知ってたけど理解してなかった部分があったり、
そんな中でお互いに何か感じるものがあったはず。
「辺野古行ってみる?」
この言葉から始まる。
2007年02月16日
ヘリ墜落現場
ヘリ墜落現場の沖縄国際大学にきました。
絶対に忘れてはならないことです。
今日も焼き焦げた木は何か訴えるように空に向かっていました。
その反対に、今日は嘉手納基地から猛スピードと爆音で何機も飛び立っていました。
あの木はそれを見て何を思っているのかな。。。
校舎が新築になっていたけれどだからこそ、あの木が訴えることを肌で受け止めていかないとならないと思う。
絶対に忘れてはならないことです。
今日も焼き焦げた木は何か訴えるように空に向かっていました。
その反対に、今日は嘉手納基地から猛スピードと爆音で何機も飛び立っていました。
あの木はそれを見て何を思っているのかな。。。
校舎が新築になっていたけれどだからこそ、あの木が訴えることを肌で受け止めていかないとならないと思う。
2007年02月16日
最終日
おはようございます。
今日はいょいょ最終日になりました。
昨日は辺野古でジュゴンコンサートを聞かせてもらったあと、友達が出演してた民謡コンサートを聴きに行きました。
そして、今日がいよいよ最後になってしまいました。
充実させるぞー!
今日はいょいょ最終日になりました。
昨日は辺野古でジュゴンコンサートを聞かせてもらったあと、友達が出演してた民謡コンサートを聴きに行きました。
そして、今日がいよいよ最後になってしまいました。
充実させるぞー!
2007年02月16日
三矢のサーターアンダギー
許田の道の駅にある三矢のサーターアンダギー。
おいしいと評判で来てみたところ…
あびちゃん大絶賛!!!!
「こんなおいしいサーターアンダギーは食べたことがない!」
40個の大人買いする強者もいました。
外側はカリッと、内側は柔らかでほくほく♪
プレーンの他に黒糖・紅芋・田芋・ごま・かぼちゃがあります。
一度お試しあれ!!!!!
おいしいと評判で来てみたところ…
あびちゃん大絶賛!!!!
「こんなおいしいサーターアンダギーは食べたことがない!」
40個の大人買いする強者もいました。
外側はカリッと、内側は柔らかでほくほく♪
プレーンの他に黒糖・紅芋・田芋・ごま・かぼちゃがあります。
一度お試しあれ!!!!!
2007年02月15日
本日の辺野古
朝の内は大雨、
昼からは上がったり晴れたりの不安定な天気の中…
テント村でお話を聞いていると、
辺野古の浜に水陸両用車が停まってるとのこと。
沖国大生と共に浜へ。
米兵が睨みをきかす中で、
初めて基地を見て緊迫感を持ちました。
同い年か年下の米兵は何を思い戦闘訓練を行うんやろ…
実際にこの沖縄から戦争に行くのを許しているという構造は、
やっぱり沖縄だけの問題ではない。
日テレさんが取材に来られてて、
ニラカナも取材受けました。
昼からは上がったり晴れたりの不安定な天気の中…
テント村でお話を聞いていると、
辺野古の浜に水陸両用車が停まってるとのこと。
沖国大生と共に浜へ。
米兵が睨みをきかす中で、
初めて基地を見て緊迫感を持ちました。
同い年か年下の米兵は何を思い戦闘訓練を行うんやろ…
実際にこの沖縄から戦争に行くのを許しているという構造は、
やっぱり沖縄だけの問題ではない。
日テレさんが取材に来られてて、
ニラカナも取材受けました。
2007年02月14日
ちゅら海
水族館にきました。
4名は水族館の中に行ったのですが、
マナティ、ジュゴン好きな私、まぁみとふみぃは、
マナティ館にずっといまーす!笑
それから今日はふみふみとはぉわかれかな?(PД`q)
今日は二カ所しいか行きませんでしたが、すごく濃い一日です!
4名は水族館の中に行ったのですが、
マナティ、ジュゴン好きな私、まぁみとふみぃは、
マナティ館にずっといまーす!笑
それから今日はふみふみとはぉわかれかな?(PД`q)
今日は二カ所しいか行きませんでしたが、すごく濃い一日です!
2007年02月13日
肝高の阿麻和利
昨日は勝連町に「肝高の阿麻和利」という舞台を見に行きました☆
中高生と言えども、プロ顔負けで、
演技も歌もセットも踊りもスゴイ!
ウチの横のお客さんも、
この舞台の評判を聞いて内地から来たって言ってたし、
海外からもわざわざ見に来る位。
今回は100回記念講演で、
OB・OGたちがオープニングに参加!
全体的に台詞やダンスに超迫力もあって、
音も生演奏やし、体に響いてくるかんじ。
ホンマに高校生の舞台なんかなぁ?
主役の子が演技うまくて声もいいし、
エンディングで踊った時は凄すぎるっていう意味のため息が出ました!
最後は拍手喝采、スタンディングオーベーション!!!
お客さんも出演者も号泣!
また来年も、後輩が継いでいくみたいやから、
ぜひ見に行って下さいねぇ☆★
中高生と言えども、プロ顔負けで、
演技も歌もセットも踊りもスゴイ!
ウチの横のお客さんも、
この舞台の評判を聞いて内地から来たって言ってたし、
海外からもわざわざ見に来る位。
今回は100回記念講演で、
OB・OGたちがオープニングに参加!
全体的に台詞やダンスに超迫力もあって、
音も生演奏やし、体に響いてくるかんじ。
ホンマに高校生の舞台なんかなぁ?
主役の子が演技うまくて声もいいし、
エンディングで踊った時は凄すぎるっていう意味のため息が出ました!
最後は拍手喝采、スタンディングオーベーション!!!
お客さんも出演者も号泣!
また来年も、後輩が継いでいくみたいやから、
ぜひ見に行って下さいねぇ☆★
2007年02月13日
二日目出動-!
二日目が始まりました!
恩納村を出発して今は嘉手納基地の横を走ってます!
今から那覇に向かい南部戦跡を回りにいきまーす!
さぁ、今日はどんな一日になるでしょう-?
恩納村を出発して今は嘉手納基地の横を走ってます!
今から那覇に向かい南部戦跡を回りにいきまーす!
さぁ、今日はどんな一日になるでしょう-?